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艶やかな純白の花弁が、緩やかに朽ちていく様は、どことなく彼の人を思い起こさせる。
まだ梅雨明けには程遠い、今にも泣き出しそうな曇天が広がる六月の午後。
ボクは薄暗い図書室で、年代物の文庫本を読んでいた。
普段は賑やかな教室でも、お構いなしに本を読むのだが、今日は何となくそんな気分にはなれなくて、図書室へ足を向けた。
校舎の一番外れにある図書室には、試験前以外に人が立ち入ることは殆ど皆無だ。図書委員の中でさえ、此処へ来るのを面倒がる人もいるくらいなのだから。
図書室の扉を開くと、室内は少し籠もったような熱と本特有のインクの匂いに充ちていて、ボクは知らず顔を顰める。
本の匂いは嫌いじゃない。けど、熱気と湿気が尋常じゃない。
迷わず窓辺へと歩みを進め、換気のために窓を少しだけ開け放つ。本に湿気は大敵だが、今日はまだ雨も降ってないし、逆に閉めっぱなしの方が本を傷めてしまう可能性がある。
明け放たれた窓からは、芽吹いたばかりの青々しい若葉の匂いと、今にも泣き出しそうな雨の匂い。
電気を点けるのも億劫で、そのままカウンター席に座り、手にしていた文庫本のページを繰る。
静かだ。
聞こえるのは自分がページを捲る微かな音以外、何の物音もしない。
薄暗い室内で紙面に踊る文字を無心に目で追っていると、手元がふいに陰る。
ボクは徐に顔を上げると、目の前に立つ、意外そうでいて心の何処かで半ば予期していた人物の名を呼んだ。
「…先生」
突如として目の前に現れた先生は、ボクが手にしている文庫本を一瞥すると不思議そうに呟いた。
「江戸川乱歩の短編小説ですか。写実的な作品を好む貴方にしては、珍しいですね」
「……」
珍しい、のだろうか。
そう言われても自分では良く分からないから、否定も肯定も出来ないけど。
だからボクはその言葉には答えず曖昧に笑うと、さり気なく話題をすり変えた。
「こんな辺鄙な処まで来て、どうしたんですか?今は昼休み中ですからサボりではありませんよ」
本を読み出してしまうと周囲の音が全く耳に入らなくなるボクは、サボりの常習犯だ。その度に先生が捜しに来てくれるから、今では捜してくれるのを期待して、わざとサボったりしているのは先生には内緒だ。
「私、は…」
先生は続きを言おうかどうしようか迷うように、口を噤んでしまった。
目を逸らされる。
いつも真っ直ぐボクを見てくれる、先生の綺麗な瞳が不安げに揺れているから、分かりたくなんてなかったのに。
気付いて、しまったのだ。
だからボクは、読みかけの本を静かに閉じると、何の感情も込めずに言葉を継いだ。
「死のうとして、死ねなかった、の?」
その言葉に、先生の身体がビクリと震える。過剰な反応に、答えなくてもそれが事実だとボクに伝える。
言い当てたところでちっとも嬉しくも何ともないから、ボクはこれ見よがしに溜め息を吐く。
先生の自傷行為は、今に始まったことじゃない。止めたって聞くような人じゃないし、ボクが止める権利もない。
優しさだけを与え続けていれば、いつか先生の自傷行為もなくなると信じていた。けど、実際は減るどころか益々増えていく一方で。
何がそんなに不安なんだろう。その理由は分からないけど、先生が傷つく姿は見たくない。
ボクはカウンター席から立ち上がり、所在無げに立ち尽くす先生を抱き寄せた。
その時。
僅かに身じろいだ先生の髪から、清冽な甘い薫りがふわりと漂った。
「…先生、甘い匂いがする」
髪に鼻先を埋めながら、すん、と鼻を鳴らすと、先生の体臭と混じって甘い匂いが肺を充たす。
懐かしい匂い。
この薫りは、確か…
「……くちなし、…」
小さく呟いた。
そうだ、この濃密な薫りは梔子の花だ。
「…云いたくないなら、理由は無理に聞きません」
梔子は熟しても実が割けないから、『口無し』と呼ばれるようになったという逸話がある。先生の心情が、無意識のうちに梔子の許へと足を向けさせたのだろう。
白く咲き誇る花は美しいが、地に落ちて朽ち果てた花は茶色く変色する。それはどこか土へと還り、腐っていく死体を彷彿とさせる。
肉体だけではなく、胸の裡に秘めた想いも、何もかも。
「…死にたかったんです……」
先生はボクの腕の中で、ポツリと呟いた
「胸が苦しくて、苦しくて…死のう、と思っていたのに…地面に落ちた花弁を見ていたら、無性に…」
くどうくんに、あいたくなったんです。
先生はどうしようもなく死にたがりのくせに、人一倍死というものを怖れている。
ボクの想いには何も応えてはくれないのに、ボクに救いを求めてくる。
なんて酷い矛盾。
だが、それが唯一先生をこの世界に繋ぎ止めている。
ただ一言、応えてくれたなら。そうすればボクが先生を救ってあげるのに。
だけど、先生は絶対にその手を伸ばさない。大人しく抱き締められているのに、その腕は朽ちて変色した花弁のように、だらりと垂れ下がったままだ。
気づかない振りをして、見ない振りをして。
割れない果実のように、ボクの想いを拒む。
梔子の花言葉は―――『沈黙』。